朝ドラキャストあさが来た!平塚らいてう(明)の生涯が超面白い

あさのことを「いけ好かない傲慢おばさん」と悪口をいいふらしていた200px-Raicho_Hiratsuka.jpg平塚らいてう
平塚明(ひらつかはる)はこのとき女子大学校(日の出女子大学校)の1年生でした。

平塚明はのちの平塚らいてうです。
本名も平塚明(一時・奥村明)で、ペンネームが平塚雷鳥、
または平塚らいてうです。

大正・昭和期の評論家,婦人開放運動家で気が強く、情熱家だったようです。

あの平塚らいてうが日本女子大学校の卒業生だったとは、
面白いですね。
それが、平塚らいてう(明)の名前が卒業生名簿から84年間、抹消されていたというのですよ。

スポンサーリンク

日本女子大学校を卒業してからは、心中未遂事件を起こしたり、女性解放運動の雑誌『青鞜』を創刊。
年下の画家と同棲、あえて私生児を産むなど、波乱万丈の平塚明の生涯が超面白いので
年代順に調べてみました。

◆平塚明(ひらつかはる)・平塚らいてうの生涯について

❖生誕から日本女子大学校の卒業頃まで

  • 明治19(1886)年:2月10日会計検査院高官平塚定二郎と母光沢の3女として東京で生まれる。
  • 明治36(1903)年:成瀬仁蔵の女子教育論にあこがれて日本女子大学校に入学する。
  • 明治37(1904)年:日露戦争勃発により国家主義的教育の度合いが強くなり、良妻賢母教育に失望。哲学書や宗教書に親しむ。

※ははん、この頃あさ(広岡浅子)の悪口を言いふらしていたのでしょうね。

  • 明治38(1905)年:日暮里の禅の道場「両忘庵」に通い禅を学ぶ。悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。

    ※大学校に通いながら禅も極めるとは、尋常ではありません。

  • 明治39(1906)年:日本女子大学校(現在の日本女子大学)卒業。
    両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎(現在の二松學舍大学)、女子英学塾(現在の津田塾大学)で漢文や 英語を学ぶ。すごい向学心です。

Sponsored Link

❖成美女子英語学校での出会い

  • 明治40(1907)年:さらに成美女子英語学校に通い、テキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。

東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座に参加するようになる。

生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が平塚の才能を高く評価する手紙を明に送ったことで、二人は恋に落ちる。

  • 明治41(1908)年:22歳 2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で心中未遂事件(煤煙事件)を起こし、救助される。

新聞がこの事件を明の顔写真まで掲載し面白く書き立てたので、明は一夜にしてスキャンダラスな存在となる。

※面白いことにこの時、日本女子大学校は、卒業生名簿からから明の名を抹消したそうです。
よほど恥ずかしいことだと思ったのでしょう。

この時、広岡浅子(ドラマのあさ)はまだ生存していましたから、ひょっとしたら浅子が抹消するように指図をしたのかもしれませんね。

その後、大正、昭和を経て、なんと平成4年(1992年)に平塚明の名前が復活されたとのこと。
(『日本女子大学学園事典』)

84年間も名前が消されていたとは。これも時代の流れでしょうか。実に面白いです。

さらに、明が心中未遂事件を起こした相手の森田草平は夏目漱石の弟子で、
彼はこの事件により、社会的に抹殺されようとしたのですが夏目漱石に救われ、
後にこの体験を朝日新聞に『煤煙』として発表し、華々しく文壇にデビューするのです。

平塚らいてうは夏目漱石にも影響を与え、「三四郎」に登場する美禰子のモデルとも
言われています。

作家はいいですね。自分の体験がそっくり小説の題材になるのですから。

❖女性のための雑誌「青鞜」の創刊

心中未遂事件を機に、男尊女卑の社会で女性は抑圧されていると感じた平塚明は、女性解放
に興味を持つようになります。

成美女子英語学校の恩師生田長江の強い勧めで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入ります。

母が平塚明の結婚資金として蓄えてくれていたものを元に青鞜社を立ち上げます。

  • 明治44(1911)年9月:25歳の時、雑誌「青鞜」を創刊。平塚明は『元始女性は太陽であつた – 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書き、その原稿を書き上げたえときから「らいてう」というペンネームを用いるようになり、

「元始女性は太陽であつた」は平塚らいてうの女性解放運動を象徴する言葉の代表となりました。

※しかし「元始女性は太陽であつた」には続きがあります。

「元始、女性は太陽であった。真性の人であった。今、女性は月である。
他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」と。

当時の女性の立場をみごとに表していると思います。太陽と月では全く逆ですからね。

『青鞜』創刊号は男女で両極端な反響を巻き起こし、平塚らいてうはさらに有名になります。

青鞜社の出版物は色々な問題を起こし、休刊になったり発禁になったりします。

❖奥村博史との出会い

  • 大正元(1912)年:夏、茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年・奥村博史と出会い、事実婚(夫婦別姓)を始める。
  • 大正5(1916)年:奥村との家庭生活と『青鞜』での活動の両立が困難になり、色々あって、青鞜は休刊となる。

奥村との間には2児(長男、長女)をもうけたが、従来の結婚制度や「家」制度をよしとしない平塚らいてうは、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れていました。

しかし、昭和16(1941)年、長男の兵役の前に、軍隊内で私生児として不利益を被ることを恐れた平塚は、一時奥村家の籍に入っています。
やはり母性はあるのですね。母性保護運動もしています。

❖新婦人協会設立

  • 大正8(1919)年、11月24日:第一次世界大戦後、市川房枝・奥むめおらと、女性の政治的・社会的自由を確立させるため新婦人協会を結成。
    「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、日本初の婦人運動団体として活動します。
  • 大正10(1921)年:過労や市川房枝との対立により、新婦人協会の運営から退き、文筆活動にはいる。

❖第二次世界大戦後

日本共産党の同伴者として活動し、婦人運動と共に数々の反戦・平和運動を推進しました。

  • 昭和26(1950)年6月:来日したアメリカのダレス特使へ、「日本女性の平和への要望書」を連名で提出。
  • 昭和27(1951)年12月:対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。
  • 昭和28(1953)年4月:日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。
        同年 12月:国際民主婦人連盟副会長就任。
  • 昭和30(1955)年:世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となる。
  • 昭和35(1960)年:連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。
  • 昭和37(1962)年:野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成。
  • 昭和41(1966)年:「ベトナム話し合いの会」を結成。
  • 昭和45(1970)6月:市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。
  •    同年 7月:「ベトナム母と子保健センター」を設立。

「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言し、平塚らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身しました。

❖平塚明・らいてうの最晩年

自叙伝の作成にとりかかったのですが

    • 昭和45(1970)年:胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。
      入院後も口述筆記で執筆を続け、
    • 昭和46(1971)年5月24日:85歳で逝去。著書多数。

あさが来たのドラマでも、気の強い女性として描かれている平塚明(らいてう)ですが、
これほどすさまじい、面白い人生を送った女性はめずらしいのではないでしょうか。

市川房枝や与謝野晶子と、仲良くしたり、対立したり。
人間関係もめまぐるしく変化するすさまじい人だったようです。
その時、その時の自分の気持ちに正直であったとも言えるでしょう。

彼女の人生をたどるだけで疲れてしまいました。

◆若いつばめは奥村博史のことだった

そんな平塚明の生涯に面白いエピソードがありました。

よく若い恋人のことを「若いつばめ」と言いますね。今まで、どうして若いつばめと言うのかと
不思議に思いながら、調べてみようともしなかったのですが、

「若いつばめ」は平塚の事実婚(実婚も)の相手であった奥村博史の手紙から来ていることが
わかりました。

奥村博史がらいてうと別れることを決意した際の手紙に

「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」

という別れの言葉が書かれてあったのを、らいてうが『青鞜』上で発表し、流行語になったのが由来なのだそうです。

奥村博史はなかなか粋な人ですね。らいてうを非難するようなことは一言も書かず、自らのせいで平和が乱れたから去って行くだなんて。 私なら追いかけて行くと思います。

彼は身体が弱かったようですが、その後どうしたのでしょう。

※その後再婚はせず、画家や工芸家として大成し、昭和39年2月18日74歳で死去しています。当時平塚は79歳。年上の平塚より早く亡くなったのですね。

「若いつばめ」にこんな素敵なエピソードがあったとは、戦いに明け暮れていた平塚にも、幸せな時があったのだなと感じました。

◆あなたにオススメ

スポンサーリンク

コメントを残す

このページの先頭へ